3年ほど前だったと思う、私はずっと言えなかった言葉を口にした。
「今のあなたと、これからもやっていける自信があまりない」。
それは別に、明日すぐに家を出ようという話じゃなかった。ただ、あまりにも身勝手な配偶者に勘弁してくれと、心のなかに降り積もった痛みが、言葉の形をして口をついて出たにすぎない。でも、その瞬間から、私たちの暮らしはどこか音のない場所へ滑り落ちていった。
配偶者は奇声を上げた。なんて言っていたかは聞き取れなかった。
翌日から、「こんなことにも耐えられない弱い人に、お金の管理をさせられない」と言われ、生活費の管理は私から配偶者が管理することとなった。それだけでない、私の稼ぎ、銀行口座のすべて、財布の中の自由がひとつ、またひとつと消えていき、監視されることとなった。
我が家は共働きの家なのに、私だけ金銭的な自由の権利がはく奪された。
やがて、買い物のたびにレシートの提出が求められた。日用品の領収書に目を通され、「これは何?」と問われる。その問いは、まるで犯罪者を問い詰めるような勢いだ。私はいつも、なるべく言葉を発しないようにする。
気づけば、好きなものを買うことをやめ、昼食も食べないことが増えた。必要なものとそうでないものの線引きを、自分ではなく、配偶者の基準で判断するようになっていた。自分の判断ではなく、相手の「許可」がなければ前に進めない状態。
自由というのは不思議なもので、目に見えないと失ったことに気づきにくい。お金を管理されることは、ある意味で目に見える枷ではあるけれど、その奥にある心の支配のほうが、もっと深くて厄介だった。
配偶者は、私を睨みながら「家族のためを思って」「無駄遣いはよくないから」「一緒にやっていくには、協力が必要」などと言う。
それらはすべて、私への嫌がらせであり、監視だった。
そして私は、気づかないうちに、声をなくしていった。何かを欲しいと思う気持ちが鈍り、何かを主張する勇気が減っていった。これ以上何も奪われたくない。自分が欲しがること、自分が選ぶこと、それそのものが悪いことのように思えてきた。
最初に「難しい」と言ったのは私だったけれど、難しさの輪郭をこんなにも濃く描きはじめたのは、配偶者のほうだったのかもしれない。金銭で縛る行為は私が逃げ出さないように、仕組まれた檻のようなもの。
金銭という名の檻はとても強力だ、毎日の生活のなかで否が応でも意識させられる。そして私はそのなかで、今日も静かに息を潜めている。