近所の人が配偶者を褒めるとき、私はほんの少しだけ視線を落とす。
公園のベンチで、子どもをはさんで笑い合う夫婦の姿を見かけるときも、たいていは同じように、無意識にうつむいてしまう。
誰かが配偶者を褒めるたびに、私の中に小さな波紋が広がる。無色透明だけれど、たしかにそこにある痛み。
私は微笑んで、「ありがとうございます」と言う。それが一番安全な答え方だからだ。
配偶者は外では、よくできた人間に見える。誰にでも礼儀正しく、ちょっとしたユーモアで場を和ませるのが上手い。どこに出しても恥ずかしくない、という言い方があるけれど、あれはまさにそういう人に使う言葉なのだろうと思う。
でも、玄関のドアが閉まった瞬間、すべてが変わる。
音が消える。空気の密度が変わる。
そして、沈黙だけが残る。
私が「おかえり」と言っても、返事はない。目も合わない。話しかければ舌打ち。たまに声をかけてくるときは、命令か皮肉だけ。
それはまるで、私という存在がただの雑巾か何かのように扱われているような気分になる。
あるいは、看守と囚人。その関係の方が、正確かもしれない。
この家の中で、私は風景の一部になっている。無害で、無力で、透明な存在。
そのくせ、何かを言えばすぐに地雷を踏む。怒りのスイッチが入る。
だから私はできるだけ何も言わない。なるべく音を立てずに、生活する。
気配を殺して、呼吸を押し殺して、静かに暮らす。
そんな暮らしに慣れてしまった自分が、時々とても怖くなる。
外では、笑顔を絶やさない。
それは習慣というより、もはや防御反応に近い。
人に知られたくない。けれどそれ以上に、自分自身に知られたくないのだ。
自分の人生がこんなふうに、歪な形で進んでいることを。
夜になると、時々夢を見る。
何もない部屋で、私は誰かを待っている。でもその誰かは決して現れない。
私はずっと椅子に座り、時計のない時間の中で呼吸を数えている。
目が覚めると、天井の隅に小さな染みが見える。
それは何年も前からそこにあるけれど、今夜は少しだけ濃く見える気がした。
人は、慣れてしまう生き物だ。
不自然な空気に慣れ、言葉のない日々に慣れ、心がすり減ることにも慣れる。
そして、それが「普通」だと思い込むようになる。
でも、それが本当に「普通」なんだろうか?
この場所から出ることは、たぶん誰かには逃げに見えるのだろう。
でも私にとっては、それが生きるということと、ほとんど同義なのだ。
映画『ショーシャンクの空に』の中で、アンディが静かに脱獄の準備を続けたように、
私もまた、誰にも知られない形で、自分の出口を探している。
あなたにも、そんな気持ちになる瞬間はありますか?
もしあったなら、少しだけでもいい。あなたの物語を聞かせてほしい。
この場所が、そういう声が集まる静かな場所になれたらいいなと思っている。